レポート:「江戸の身体観・死生観~現象学的アプローチ~」
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8月26日に、梶谷真司氏(東京大学)と本村昌文氏(岡山大学)をお招きして、「江戸の身体観・死生観~現象学的アプローチ~」と題した講演会を行った。
「言葉の中の身体―医学書・養生書における東洋的身体の多層性」と題された梶谷氏の発表は、まず異文化の身体に対する現象学的アプローチの可能性について検討したのち、江戸期の医学書・養生書から日本の身体観の特徴について論じるものであった。梶谷氏は、まず理論的身体と実践的身体に分けて考えることを提唱された。その上で、直接的経験から出発する現象学は、実践的身体に関わり、その異文化性を描き出すことができるだけでなく、理論的身体およびその異文化性に対しても接近できることを強調された。理論的身体であっても、それが言葉で記述される以上、その言葉を読むことも直接的経験として扱うことができるからだ。日本の医学書は理論的身体に関わるものだが、古方派や国学派の医学は、ともに中国医学を批判し、理論を敬遠して医療実践に基づいた単純な原則を打ち立てようとしていたことが説明された。さらに、江戸期の実践的身体観を垣間見ることのできる資料として、梶谷氏は養生書に着目される。そこからは、身体の内外が高い透過性をもつといった身体観、母子の境界が稀薄な身体観などを読み取ることが可能である。梶谷氏は、こうしたヨーロッパとは異なる文化の身体観を洗い出すことが、普遍的な理論の再検討につながりうることを指摘されて、発表を閉じられた。
「江戸期における老い・死・死後」と題された本村氏の発表は、長生きはめでたいことかという現代の問いかけを出発点に、「命長ければ辱多し」を含む『徒然草』の第七段についての江戸期の注釈書をとりあげ、無常観・身体観の変遷を追うものであった。本村氏は、『徒然草』の原文にある「長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ」の四十という年齢が、江戸期の人々にとっては「老いのはじまる時期」とみなされていたことをまず論証された。その上で、林羅山、清水春流、加藤盤斎、厭求、藤井懶斎の論著をとりあげ、それぞれの特徴をとりあげられた。林羅山は、四十という年齢を、『論語』の記述と重ね合わせ、老いる前に学問を積むことの重要性を強調する。羅山より半世紀ほどのちの俳人である清水春流と加藤盤斎になると、老いや死に焦点を当て、『徒然草』の無常観をはっきり示すようになる。僧の厭求は、四十以後、死について意識を集中して生きるべきことを説き、朱子学者の藤井懶斎は、老いを肯定的にとらえて『徒然草』の死生観を批判する。本村氏は、こうした注釈・論著の違いは、それぞれの思想的立場はもちろん、大きな戦さのない「太平」の世の出現という状況、そして17世紀の思想的関心の変化とも対応していることを述べて発表を締めくくられた。
垣内景子氏(明治大学)と志野がコメンテーターをつとめ、意味や地平といった概念を発表者の示された事例に則して検討した。質疑応答では、中国の身体観と日本の身体観の違い、近代化以降の身体観の変容などについて議論がなされた。
江戸期のテクストのもつ豊かな可能性は、あえて現象学の手法を用いなくても様々なかたちで示されうるだろう。現象学的な視点をもちこむことではじめて見えてくるものもあるにはあるだろうが、むしろ江戸期のテクストがもつ豊かな可能性を現象学の領域にもちこむことで、現象学を豊かにすることの方に魅力を感じた講演会であった。(文責:志野)