7月4日レポート:オープニング・シンポジウム 現象学にとって異境とは何か
Report
2015年7月4日、明治大学和泉キャンパス図書館ホールで、オープニング・シンポジウム「現象学にとって異境とは何か」が開催されました。小雨が混じるなか、明治大学の学部生から、遠くから足を運んでくださった現象学の専門家まで、参加者は50名を超えました。私たちのプロジェクトへの関心は決して小さくはないことがわかり、強く勇気づけられました。
シンポジウムは、研究代表者の合田正人によるプロジェクトの説明で幕を開け、次に、池田喬、合田正人、志野好伸の三人の研究推進者がアメリカ、中国、日本での現象学の展開について報告し、さらに、田口茂氏(北海道大学准教授)と中島隆博氏(東京大学教授)の二人のゲストによる講演が続きました。最後に、会場を交えた総合討議が行われ、シンポジウムは盛況のうちに終了しました。
現象学とはある種の「運動」である−−−−これは現象学についてのオーソドックスな言い回しの一つですが、その「運動」は一定の主張やテーゼの信奉者が増殖するといったテリトリーの拡張ではありません。世の中には、ほとんどありとあらゆる学問領域で「〜の現象学」が存在していますが、現象学の「運動」はそれを引き受ける者のもとで特有な形態を帯びて、予想外の変貌を遂げています。そうした変貌は、ハイデガーの現象学がアメリカでローティらによってプラグマティズムの思想として受容された時や(池田報告)、ハイデガーの「現存在」が中国で「親在」や「人生」と翻訳された時(志野報告)にも生じていますし、フッサールやハイデガーのもとで学んだレーヴィットやアンダースによる日本についてのどこか現象学的な記述においてもそうでしょう(合田報告)。現象学とは「可能性」であり、固定した教条ではない以上、オーソドックスな見方以外の展開はすべて「逸脱」と片付けるような態度は反現象学的であり、「異境的展開」をそれ自体シリアスに受け取るのが現象学的なのだと思います。私たちの報告がその意味での現象学を実践するものになっていたとしたら、まずは成功と言えるでしょう。
講演の部で、田口氏は、フッサールと田邊元と西田幾多郎という二人の日本の哲学者の思考が交錯する場所を「内は外であり、外は内である」という事態に求めました。内と外−−−−心と世界と言いかえてもよいのですが−−−という当たり前に思える二元的な図式をエポケーして、それが立ち上がってくる場面に私たちを立ち合わせるという、優れて現象学的な試みのために、田口氏は、「内は外であり、外は内である」という矛盾的表現を手がかりとすることを提案し、その内実をフッサール・田辺・西田の三人の思想を解釈しながら丁寧に解きほぐしていきました。この田口氏の粘り強い思考は、私にとって、「現象学にとって異境とは何か」というシンポジウムのタイトルに掲げられた問いを考える上で示唆深いものでした。異境的なものを故郷的なものと対比することが自明で、あるいは不可避であったとしても、(これはハイデガーのヘルダーリン解釈の一つのテーマですが)、異境(外)にあるときに故郷(内)が見いだされ、故郷(内)にある時に異境(外)が見いだされる、ということが、あえて異境なるものが問われる時には根底で生じているのではないか−−−−。
続く中島氏のご講演では、2001年にデリダが中国を訪問した時の講演内容とエピソードを追いながら、西洋/東洋といった制約を解除して無条件的なものへと開かれようとするデリダと中国の現象学者との間に生まれたある種の軋轢が詳しく論じられました。「中国には哲学はなく、あるのは思想だけだ」というデリダの言葉に中国側の学者が多大なショックを受けたことは、どうも人ごとのように思うことができず、私の心にも動揺が走ります。中国でのデリダについてのお話を通じて、無条件的な普遍というそれ自体〈西洋的〉なアイデアをあらためて問うべき時空が生成する、そういう一つの運動が立ち現れてきたと言えると思います。そもそもフッサールの『危機』は「新たな普遍学」としての現象学を求めるものでしたが、その〈普遍性〉は先にも述べたように、テリトリーの拡張とは違う、何重にも変異した雑多な広がりとして現実化してきました。この「運動」は明らかに政治的な思想運動を目指すものではないですが、だからといって、没政治的でもありえないでしょう。むしろ、思考が生き物のように境界を侵犯する現象学の動きに、普遍をムーブメントとして別様にイメージするための想像力の源泉を掘り出すことができるのかもしれない−−−−。
(左から、田口氏、中島氏、志野、池田、合田)
告知をしている段階で、またこの日の懇親会で、「異境って何のことですか」と尋ねられることがしばしばありました。私としては、その問いに何かを言えるかどうかの端緒に立ったばかりだとしか言えません。この言葉には、最初から障害なく伝わる既定の説明が存在しないからこそ、私たちに想像や思考を喚起するところがあります。三年間かけて問いたずねるために、「異境とは何か」をオープニングの問いに掲げました。「異境って何のことですか」という問いが生じたならば、私たちと同じ問いを共有してくれたということだと思います。今後の展開にぜひお付き合いいただければ嬉しいです。
最後に、今回のシンポジウムにあわせて、ポスターのデザインとホームページの制作をタイトなスケジュールのなかで引き受けてくださった、沖縄の仲宗根香織さんにお礼申し上げます。この日の懇親会は、沖縄料理屋で泡盛を飲みながらの楽しい語らいの時となりましたことも付け加えておきます。
(文責:池田)