レポート:8月7日シンポジウム「東アジアにおけるレヴィナス」
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8月7日、中山大学(中国・広州)との共催で、国際シンポジウム「東アジアにおけるレヴィナス」を開催した。冒頭、合田氏は、1980年代に自身がレヴィナスを研究し始めた頃は、ほとんど周りにレヴィナスの名を知る人がいなかったこと、それが今日、日本でも中国でも盛んに論じられる対象となっていることを指摘し、なぜ東アジアでこれほど読まれ続けているのかと問いかけ、本シンポジウムの意義を説明した。また、自身がかつて沖縄でレヴィナス研究に没頭していたこと、今回のシンポジウムを当初沖縄で行う計画であったことに言及し、沖縄の持つ地政学的な意味についても強調された。
(左から、合田正人氏、朱剛氏、王恒氏と通訳の張煒氏)
『全体性と無限』の中国語訳を昨年出版された朱剛氏は、『全体性と無限』におけるféconditéという概念をとりあげ、その分析を通して超越や他者の問題についてのレヴィナス思想の特徴を明らかにした。あわせて母ではなく父と子の関係が説かれていること、また創世論が踏まえられていることから、レヴィナスの思想に一元論の痕跡が認められると論じた。
『全体性と無限』の日本語訳者の一人である合田氏は、刊行中のレヴィナス著作集を利用しながら、レヴィナスの思想においてリズムが重要な概念であることを論証した。レヴィナスが注視するのは、「リズムの欠如からなるリズム」であり、それが善や正義とも、また〈ある〉の回帰とも結びつけられているのである。合田氏は『存在するとは別の仕方で』の一節をもとに、レヴィナスの哲学は一言で「不整脈(arythmie)」の哲学と評することができると主張した。時間の都合で割愛されたが、準備原稿では、リズムの思想史の構想についても論じられていた。
王恒氏は、無限概念に着目し、レヴィナスの受動性や対面を読み解いた。王氏は現象学の展開にも論及し、倫理の次元を開くレヴィナスの思想は、フッサールの志向性分析を徹底したものであり、またマリオンの「反志向性(counter-intentionality, contre-intentionnalité)」という概念がレヴィナスの無限概念を理解する上で有効であることを論じた。準備の都合で王恒氏の原稿を日本語版を事前に完成させることはできなかったが、通訳の張煒氏(東京大学博士課程)が王氏の発言をよどみなく日本語に訳してくださったことを付言しておく。
志野は、『全体性と無限』の朱剛氏と合田氏の訳を読み比べ、特にétrangéが朱氏の訳では「見知らぬ人(陌生者)」と訳され、合田氏の訳では「異邦人」と訳されていることに着目し、この違いが、レヴィナスにとっての「わが家」やそこでの「分離」を理解する一助になるとした。あわせてレヴィナスが用いるoptiqueという語をどう理解するかを論じ、レヴィナスの議論を翻訳論として読むことも試みた。
最後の総合討論では、合田氏が、レヴィナスが東洋のことにほとんど触れないことをどう考えればよいのか、という問題提起を発し、朱氏や王氏は、それぞれ東洋思想との比較、タルムードの伝統との比較などを行う必要性を強調した。最後に、このシンポジウムのコーディネーター役を務めた廖欽彬氏は、現象学など西洋の哲学が東アジアにもたらされ、京都学派に大きな影響を与えたことと、今回のシンポジウムで議論されたこととは密接な関連があるとし、さらに自身の関わる植民地時期の台湾哲学の掘り起こしとも関連すると述べ、今回の企画の意義をより大きな文脈から強調した。
(アカデミーコモンの前で、左から王恒氏、志野、朱剛氏、廖欽彬氏)
残念ながら参加者は少なめであったが、日中それぞれでどのような研究が行われているのかを具体的に知ることのできた有意義な機会であった。今後学術交流を進めることで、さらに実り多い成果が期待され、シンポジウム終了後、早速具体的な交流計画について話し合ったことを付け加えて報告の結びとしたい。(文責:志野)