10月23日レポート:シンポジウム「もう一つの現象学へ 」
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10月23日レポート:シンポジウム「もう一つの現象学へ − パース、ルヌヴィエ、バシュラール」
2016年10月23日午後1時から、明治大学中野キャンパスにて標記のシンポジウムが開催された。中野キャンパスでの開催は初めて。休日の街の賑わいが御茶ノ水、神保町とは大きく異なる。いわゆる秋の行楽日であったが、二十数名の方々が集まってくださった。深謝申し上げたい。
「現象学」と呼ばれているものが「一つ」ではないこと、フッサールを祖とする「現象学」についてさえその多様性・多数性が語られるねばならないこと、それは言うまでもない。とはいえ、今日に至るまで、ヘーゲルとフッサールとは別の「現象学」の水脈が従前に探査されたことがあっただろうか。
(合田)
かのデリダは『グラマトロジーについて』のなかで、「現象学」という語の創始者としてスイスの数学者ヨハン・ハインリヒ・ランベルト(Johann Heinrich Lambert, 1728-1777)に言及し、「物」と「記号」という観点から、フッサールの「現象学」とランベルトのそれとの相違、ランベルトの「現象学」とチャールズ・S・パースのそれとの近接を語っているが、デリダを論じる者たちのなかでこの論点に注目した者がどれだけいただろうか。また、ジョルジュ・ギュルヴィッチのソルボンヌ講義『ドイツ哲学の現下の諸潮流』(Les tendances actuelles de la philosophie allemande, 1930)の序文に、レオン・ブランシュヴィックは「現象学とルヌヴィエの現象主義との絆は用語の類似をはるかに超えている」と書いていた。けれども、この指摘を真剣に受け止めた者がどれだけいただろうか。加えて、本研究の前回のシンポジウム「リズム」において、私たちは、「リズム分析」を提唱するガストン・バシュラールが「現象学」「現象工学」といった表現を多用していることを学んだ。
今回のシンポジウムは以上のような視点から企画され、有難いことに、バシュラールの専門家であられる奥村大介氏、ジェムズ、パースの専門家であられる乘立雄輝氏のご協力を得て無事実現された。ルヌヴィエ、バシュラール、パースと話が進むにつれて、それまでは見えなかった連関、接触、衝突が次第に太く描き出され、三名の名をもとに聴衆の方々が思い描く構図はシンポジウムの終了時には大きく変化したのではないだろうか。いや、そうであったことを切に願う次第である。また、本シンポジウムは、2016年5月26日に逝ってしまった科学哲学者、金森修に師事し、彼を慕い敬愛する者たちの集う場ともなったことを最後に付け加えておきたい。(文責・合田)
(奥村大介氏)
(乘立雄輝氏)
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フッサールとハイデガーを中心に王道の現象学を勉強してきた者として、ルヌヴィエ、バシュラール、パースに焦点を当てた今回の企画は、自分にはどこか遠いもののように思っていた。バシュラールについては、ハイデガーの弟子であったオットー・ボルノー『人間と空間』が、ハイデガーの住むことの分析とバシュラールの『空間の詩学』を重ね合わせて見事に論じていたから、この本の愛読者として、バシュラールの「現象学」とはどういうものか、以前から興味があった。しかし、ルヌヴィエ、パースについては、「現象学」といっても、フッサール由来のいわゆる現象学とはあまり関係ないのだろうと思っていた。
結果としては、パースについての乘立雄輝氏の講演によって現象学の原点に連れ戻された。それは、パースの哲学体系において、「思弁的文法学」(記号論)は「現象学」によって基礎付けられるという構想が話題になった時である。乘立氏は、フッサールが現象学を純粋論理学の基礎として考えていたことや、ハイデガーがパースと同じように思弁的文法学に注目したことは単なる偶然とは思えない、と指摘した。
たしかに、スコトゥス学派の「思弁的文法学」とは、ハイデガーが教授資格論文の主題にほかならない。この論文で、ハイデガーは、思弁的文法学を、単に一つの古典として研究したのではなく、むしろ、彼の第一の師である新カント学派のリッケルト、第二の師である現象学の創始者フッサールがともに取り組んでいた論理学の哲学や判断論といった当時のアクチュアルの問題群に、鮮やかに切り込む知的資源として再生し、我がものにしようとしたのである(村井則夫氏による「「カントに還れ」から「事象そのものへ」」(『ハイデガー読本』法政大学出版局)を参照)。加えて、パースらがアメリカの新カント学派と呼びうる側面があることを考慮すれば、パースの問題意識とフッサール〜ハイデガーという現象学の流れには、たしかに偶然だとして済ますことのできない、思想史的連関があるだろう。質疑応答では、中世哲学研究者の方から、思弁的文法学についての補足的説明をもらうこともできた。
現象学の「異境的展開」から現象学の「原点」への新しい視界が開けてくる、という、格別の経験をして、私は、知的興奮に包まれていた。(文責・池田)
(総合討議:池田〜合田〜乘立氏〜奥村氏〜志野)