3月19日レポート:シンポジウム 現象学と日本哲学の〈はじまり〉
Report
2016年3月19日、明治大学駿河台キャンパス・リバティータワー1012教室で、2015年度のクロージング・シンポジウム「現象学と日本哲学の〈はじまり〉」が開催されました。春休み中でいつもより静かなキャンパスに、50名近くの方が足を運んでくださり、教室はたちまち活気に包まれました。
まず、研究代表者の合田正人が、当プロジェクトの2015年度の活動をふりかえった後、この日のシンポジウムへの導入的な説明をしました。次に、池田喬、合田正人、志野好伸の三人の研究推進者が研究報告を行い(第一部)、その後、森一郎氏(東北大学)とハンス・ペーター・リーダーバッハ氏(関西学院大学)の二人のゲストによる講演が行われました(第二部)。最後に、会場を交えた総合討議が行われ、シンポジウムは盛況のうちに終了しました(第三部)。
最初の挨拶で、合田は、1920年代にフッサールのもとに留学した高橋里美による回想録「学者を怒らせた話」を取り上げました。高橋は、「現象学の方法も哲学における一つの重要なる方法であるが、哲学の唯一の方法とは思わない」と述べて、フッサールを怒らせたそうです。学問に国境はなしと考えるフッサールは、日本人留学性の熱心な勉強ぶりを目の当たりにもして、現象学の日本での展開に過剰な程の期待を寄せていましたが、当の留学生たちの態度は、数ある哲学の一つとして現象学について客観的に知りたいといった冷静なもので、そこに食い違いがあった、と高橋は振り返っています。
その後100年間、日本の哲学界において現象学は絶えることなく研究されてきましたが、そこには少なからず生産的な「食い違い」が生じ、それによって日本の哲学にもさまざまな〈はじまり〉がもたらされてきたように思えます。ハイデガーのもとに留学した三木清が、その後パリに移って、ハイデガーの解釈学的現象学とフランスの思想的伝統であるモラリストの人間観察に類似の「人間の研究」を見いだし、独自の「人間学」を展開し始める、という意表をついた動きはその一例でしょう(池田報告)。あるいは、高橋里美と務台理作が同じ時期にフッサールのもとで学んだ少し前に、田辺元はフッサールを訪れていましたが、高橋と務台がその後、田辺の「種の論理」批判を行うときにしばしば噴出する現象学的思考も、到底、フッサールが予期できたことではありません(合田報告)。さらに、日本統治下の台湾で、務台らとともに台北帝国大学の哲学科で教えた洪耀勲が、ハイデガーの哲学を西田、田辺、さらに務台や和辻を参照しながら批判的に解釈する時、「日本哲学」なるものの輪郭も問いただされることになります(志野報告)。
日本哲学の〈はじまり〉という文句をこのシンポジウムのタイトルに掲げましたが、はじまりを括弧に入れているのは、単に、歴史的順序における最初の点という意味ではなく(そうであれば、むしろ、現象学の受容や展開よりも、西周や井上哲次郎が考察されるべきでしょう)、過去を取り戻しつつ将来への回路を開く−−多様で、入り組んだ−−〈はじまり(Anfänge)〉を思ってのことでした。現象学の異境的展開の〈はじまり〉を論じると同時に今後の〈はじまり〉にもなるような、そういう将来的可能性を私たちの報告が少しでも開いたとすれば、この日の目標は達せられたと言えるでしょう。
(左から、池田、合田、志野)
講演の部で、森氏は、三木清が留学時代に個人教授をしてもらったというカール・マンハイムと三木自身を、両者による「世代」の問題の取組みの点で再会させました。マンハイムが、世代から世代への推移の連続性を強調するのに対して、三木は伝統や伝承を重んじつつも、新しい世代が古い世代に取って代わることによって「新たに始まる」という「創造」の面を押し出していることを指摘しつつ、森氏が「歴史の根本問題」として取り出したのは、「隔世代的」な継承がいかに可能になるのか、という三木の問でした。ルネサンスにおける古代文化の復興のように、遠く離れた過去から伝承するという非連続的な創造−−個体の寿命と種の存続といった生物学的な世代交代論では説明不可能なもの−−に沿って論じられた、歴史における新しき出来事の生成は、まさに、シンポジウムのテーマである「現象学と日本哲学の〈はじまり〉」の原理的考察を含んでいました。「多元的・複数的に対峙し合う世界内共同存在のせめぎ合いの中に勃発する伝統と創造の同時生起」と、講演終盤で言語化された事態は、私たちのプロジェクトが解明を目指す当の何かを指し示しているように思われました。
リーダーバッハ氏の講演では、「和辻とハイデガー」という通常のフレーミングが、和辻の思索の十分な解明を妨害しかねないという問題提起のもとで、再検討されました。「ハイデガーが本来性と呼んだものは、実は非本来性なのである」というのはたしかに和辻の発言なのですが、この逆転はハイデガーのフレームに従ったままであるがために、例えば、和辻による「間柄」における「共同慣行」の分析が、ハイデガーによる世人(ダス・マン)としての非本来的自己の分析の代用品には到底収まり切らない、豊かさと射程をもつことを隠蔽してしまいかねません。さらに、現象学ということでいえば、1929年の『「風土」論文』と1935年の著書『風土』における「寒さ」についての記述の対比が印象的でした。和辻は、前者では、寒さを感じる時に、我々がすでに寒冷のもとにいるということ、外にでているということを「志向性」と現象学の用語で特徴付けていたのに対して、後者では、同じ事態を寒気というような「もの」の中に出るというよりも、他の我のなかにでることだとして、これは志向性ではなく「間柄」なのだと、しているのです。「間柄」論は、ハイデガーの枠組には収まり切らないとともに、現象学を脱皮しようともしています。
この日のシンポジウムで触れられた多くの日本の哲学者にとって、フッサールの純粋意識の現象学よりも、それを批判したハイデガーの歴史的な解釈学がインパクトをもっていたようですが、その意味では、現象学と日本の哲学の〈はじまり〉は、同時に現象学を〈おわらせる〉という独特な出発であったように思われます。何かをおわらせることによってしか何かがはじまることはないというのが本当だとしたら、三木も和辻も現象学を吸収したその時にはすでにハイデガーをも含めた現象学の批判者であったという事実が、この日のテーマを象徴的に際立たせているように思えました。
( 文責:池田)
今回のシンポジウムの全容については、他の共同研究者が書いてくれるだろうから、私(合田)は内輪の話になるようだが、小さな、とはいえ決して小さくはない、ではちゃんと大きなと言えばいいのだけれども、それはちょっと気恥ずかしい、そのような歓びについて報告したい。志野氏の発表のタイトルを知ったのはいつであったか。そこに書かれた洪耀勲という人物について調査を行うこともなく当日を迎えた。自分は何を話すのか、それも決まらず悶々とする日々が続き、三月に入り漸くテーマを決めたのはパリでのことだった。1930年代のパリ、もちろんサルトルたちも活動を始めていたけれど、バタイユ、カイヨワ、レイリスが主催した「社会学コレージュ」の動きを調べていると、ベンヤミンやアドルノなど亡命者たちとこのコレージュとの公私にわたるやり取りが、あの『啓蒙の弁証法』をある意味では生み出したのだということに気づいた。では、この時期を日本の哲学者たちはどう生きたのか。そこでどんな議論があったのか。これはまだまだ解明されていない問いであるが、いわゆる哲学史、思想史にはその痕跡を遺さないような言葉の往還のなかに、もう希望などという言葉を使うつもりはないとはいえ、アポリア〔難題〕の何たるかをわずかでも思考するきっかけがあるかもしれない。そう思ったのだ。しかし、私が予想したようにはことは運ばなかった。務台理作が台湾という場所について何を思ったのか、それを知りたいと願いつつも、それに関する証言を得ないまま私は拙い発表を行った。続く志野氏の発表は、台湾で務台たちのもとで働き、思考した中国人哲学者をめぐるものだった。引用箇所が映されるたびに私は動揺した。こういう形で洪の文章のなかに当時の日本における哲学の星座が反映されているなどとはまったく予想していなかったからだ。それは多島海システム論という私の根本テーマとも深く係っている、孤独であり続けようとする者たちの共同研究がどのようなものでありうるのか、それを教わったような気がする。感謝するとともに、いつか「植民地」もしくは「占領地」における日本哲学の表出と受容の形態について誰かが何かを語りうりる日が来ることを願わずにはおれない。学部生時代、幾度も読み返したハイデガー論の著者でかつての同僚でもある岡田紀子さんと一献傾けることができたのも、また、お招きした森先生、リーダーバッハ先生と共に、ハイデガーの『黒ノート』をめぐるありうべき企画について議論できたのも望外の喜びであった。(文責:合田)
(全体討議)
今回、森先生、リーダーバッハ先生をお迎えして、「現象学と日本哲学の〈はじまり〉」というタイトルでシンポジウムを開くことを決めた時点で、いわゆる「京都学派」のことが、私たちの念頭にあった。合田氏がとりあげた高橋里美にせよ、京都(帝国)大学関係者ではないものの、西田哲学との対峙や、京大出身の務台理作との比較が検討されるとの予告があり、実際そのとおりの発表がなされた。そして、私がとりあげた洪耀勲も、東京帝国大学卒業ながら、その著述には、京都学派の面々の言説があふれていた。京都学派こそが日本哲学を代表するといった見解に対して私は懐疑的な立場でいたのだが、シンポジウムの報告・討論を通して、あらためて京都学派が当時有していた誘引力、そして今なお我々の思考を刺激してやまないその魅力を確認することができた。登壇者の中から、われわれは果たして彼らの水準で思考しているだろうかといった、真摯な反省の言が出たのも印象的であった。高橋里美がフッサールを怒らせたというのも、フッサールの思考を鵜呑みにせず、日頃から批判的に向かい合っていたからだろうし、三木清がハイデガーのなしえなかったフランスのモラリストの研究を、『存在と時間』が発表される以前にハイデガー的に成し遂げたのも、ハイデガー哲学に対する深い批判的理解に裏付けられたものであった。リーダーバッハ氏が、ハイデガーを基準に和辻哲郎の思想を裁定することの非を力説されたのも、和辻の思想の独自性を際立たせるものであった。彼らはまさに「現象学の異境的展開」の日本における先駆者であったと言えるだろう。
また、それぞれの発表は事前に予期した以上に、互いに関係し合うものだった。池田氏と森氏は、そろってハイデガーと三木清の関係を問い、池田氏が三木の初期の著作である『パスカル研究』を特にとりあげてその意義を詳説されたのに対し、森氏は三木の遺稿となる『哲学的人間学』を中心にとりあげ、マンハイムやアーレントとも通じる三木の「歴史哲学」の可能性を論じてくださった。志野は洪耀勲の論文「風土文化観」を主にとりあげたが、それはリーダーバッハ氏が俎上にあげられた和辻哲郎の『風土』から直接の影響を受けて書かれた論文である一方で、そこで「表現的世界の論理」として展開された内容は、務台理作の同名論文を借用したものであり、合田氏の今回の発表と図らずも相互に補い合うことになった。共同研究やシンポジウムといった形式の利点はまさにこのように相互の議論が共鳴し合うことにあるわけだが、それを十分に活かしきれなかったという反省も残る。1週間前にでも締め切りを設定し、事前にそれぞれの原稿に目を通した上で臨んでいれば、より深い議論ができたのかもしれないと、今回のテーマに知識が乏しい私は感じた。もちろん登壇者相互の交流以外に、来聴者からの質問も、シンポジウムに活気をもたらしてくれるものとして欠かすことはできない。今回も、思いがけない視点の提示に、発表者が自分の報告を見つめ直したり、深い専門知識に基づく指摘に気づかされたりすることも多かった。次回も多くの方々に聴きに来ていただけるような企画を考えたい。(文責:志野)