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リポート:クロージングシンポジウム「哲学はどこへ」

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3年間にわたって企画された「現象学の異境的展開」のクロージングシンポジウム「哲学はどこへ――現象学の展開」がおよそ40名の参加者を得て、3月14日に行われた。

 

(左から合田、美濃部、志野)

シンポジウム前半では、明治大学から合田、美濃部、志野の3名がそれぞれ「Le premier venuとは誰か――パシェ、レヴィナス、ジラール」「フィヒテ1804年の『知識学』における現象概念」「直観と直覚――西田幾多郎と牟宗三」のタイトルで発表を行った。

合田は、ピエール・パシェのボードレール論のタイトル、Le premier venuには、「最初に訪れた者、最初に出会った者」、そして「任意の者」「凡庸な者」といった意味があることを手がかりに、他者や民主主義の問題に説き及んだ。パシェによれば、ボードレールの用いるle premier venuは犠牲と結びつけられているが、パシェが強く影響を受けたジラールは犠牲をミメーシスの観点から論じていた。すなわち、犠牲は「似たもの」ゆえに偶然的に選ばれるものであり、そこに民主主義の孕む暴力の問題が浮上する。そして、レヴィナスもまた、ジラールと同様、ミメティズムを深く理解していた。合田はさらに、自己犠牲の問題から個人とは何かという問いを提起した。

美濃部は、「現象学」という言葉を用いるようになる後期フィヒテの現象概念について報告した。後期のフィヒテは、知の確実性を知それ自体に求めるのではなく、知の根拠を絶対的存在者に求める。そして、絶対的存在者から与えられる光によって像が形成され、その時同時に像の領域を開く「自我」あるいは「我々」が成立すると説く。美濃部は、何かを表すことと表裏して何かを隠す光の働きと、ハイデガー思想との類縁性を指摘した上で、存在の原現象として自我が成立し、その自我が介在することで眼に見えるもの、すなわち(原)現象の現象が成立するという構造をフィヒテの現象概念の特徴として明らかにした。

志野は西田幾多郎の初期から中期にかけての著作を中心に、そこで直覚と直観の用語の使い分けとその意味内容の変化について報告した。また、西田の『働くものから見るものへ』の序に、自身の直観主義への傾斜と東洋文化の特徴を「形なきものの形」を見ることに求める姿勢が打ち出されていることに着目し、牟宗三をはじめとする中国の近代哲学における直観・直覚概念の活用と比較対照した。さらに西田における直観・直覚概念の深まりが、ジェイムズやフッサールが着目した意識の縁暈の問題を閑却することにつながっていると指摘し、あらためて縁暈の問題を考えることが、東洋の哲学を問いなおす一つの手がかりになるのではないかと主張した。

(左から秋富氏、林氏、朝倉氏)

後半は、秋富克哉氏、林永強氏、朝倉友海氏の三名のゲストスピーカーにご報告いただいた。

秋富氏は、「世界ともの――後期ハイデッガー現象学と西谷宗教哲学」と題する御発表で、ハイデッガーが1949年に行ったブレーメン講義などを中心に、四方界、世界、ものといった概念を解説されたのち、『宗教とは何か』における西谷啓治の思想と比較考察を行われた。秋富氏は、まず、ハイデッガーの後期においても現象学的思惟が展開されているとし、現象と覆蔵性(隠れ)の関係にそれを認めていく。そして、西谷が虚無論を脱して絶対的な此岸としての空を説くのは、ハイデッガーの後期の展開と軌を一にしていると説明された。また、西谷が仏教の「中」「仮」「回互」といった語を用いて説明する世界の構造と、ハイデッガー思想との比較検討が行われ、自己の位置づけ方の違いなどが問題にされた。

林氏には、「Philosophy as perfect teaching: On Mou Zongsan’s detached ontology(円教としての哲学――牟宗三の無執的存有論)」と題し、シンポジウム全体タイトルの「哲学はどこへ」に引きつけて、牟宗三がその問いにどう答えるかを想定して御発表いただいた。林氏は、牟宗三が哲学を「生命の学問」と定義づけし、西洋哲学に対抗するかたちで、理性に対する実践、認識論的な問題に対する構成的な問題、超越的存有論(存在論)に対する内在的存有論を説き、二つの体系を『大乗起信論』の用語を用いて「一心開二門」としてまとめていることを説明された。林氏は、牟が功利主義的でない福徳一致を主張し、その思想が現在の徳倫理学の問題にも通じていることを指摘して御発表を結ばれた。

朝倉氏は、「場所・意味・出来事」と題し、分析哲学に比べて大陸哲学の勢いがない現状を踏まえつつ、大陸哲学の一部として見られることの多い牟宗三や西田幾多郎の思想に、分析哲学に通じる内容を読み取り、その意義を再評価された。牟宗三については、カントとの対決以外に、ラッセルから多くを汲み取っていることが強調され、「一心開二門」を三諦として捉える天台宗の伝統に立ち、虚妄を出来事として真理とみなす中諦の立場を擁護していることが説明された。西田については、その場所的論理が、事実と区別された意味を擁護するものであり、行為に即して出来事の場所を見出す考えは、デイヴィドソンのevent-placeという概念にも通じることが説明された。朝倉氏の御発表はこうした牟や西田の主張に、東アジアから発信される新たな哲学的貢献の可能性を見いだそうとするものであった。

林氏の発表の中で、哲学の発展には「朋友間の信」が必要であるというお話があったが、「現象学の異境的展開」もよき朋友に恵まれて三年間のプロジェクトを続けることができた。この場を借りて、発表者や来聴者の方々にあらためて御礼を申し上げたい。

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