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11月26・27日レポート:シンポジウム Phenomenologies of “Elsewehere”

Report

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チェコを代表する哲学者ヤン・パトチュカの眠る場所にほど近い、プラハ郊外の研究施設である「ヴィラ・ラナ」を会場に、2015年11月26から27日にかけ、シンポジウム「Phenomenologies of “Elsewhere”」が行なわれた。私たちのこの明治大学・人文科学研究所総合研究「現象学の異境的展開」とプラハのカレル大学・人文学部の共同開催である。なお、このシンポジウムは、チェコの科研費に相当するGAČRの研究プロジェクト「Life and Environment: Phenomenological Relations between Subjectivity and Natural World」の定例カンファレンスとしても位置付けられた。

 

以下、研究推進者としてこのシンポジウムで発表した志野、池田の感想を掲載します。

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志野:

印象深かったのは、やはり登壇者および発表内容の多様性です。登壇者の出身地は、チェコ、日本、ドイツ、スイス、セルビアなど多岐にわたり、使用言語はドイツ語、英語、フランス語でした。カレル大学で授業を担当している教員はやむなく中座される場合もありましたが、ほとんどの参加者が2日間のプログラムに参加し、言語の壁を乗り越え、意見を交わし合いました。また、日本人側がアジアの哲学を語って、ヨーロッパ人側がヨーロッパの哲学を語るのではなく、ヨーロッパの学者が禅や西田幾多郎や西谷啓治について発表し、日本の学者がフッサールやハイデガーやフィンクを俎上に載せるといった交差も数多く、「異境」のダイナミズムがそこに現出していたように感じました。M. メルロ=ポンティや、M. アンリなどのフランス人現象学者も、しばしば共通の資源として話題にのぼりました。明治大学からは、初日に池田氏が「ハイデガーと翻訳の問い」というタイトルで、英語で発表を行い、2日目に合田氏と志野が、それぞれ「道元と日本の哲学者:和辻と田辺の場合」、「「無」をめぐる中国学とハイデガー思想との対話」というタイトルで、フランス語で発表しました。

「異境」という設定は、特定の地域を焦点化することではなく、さまざまな分野、地域に現象学を越境させるとともに、複数の分野・地域を横断することで、現象学を活性化させる装置なのだということを痛感した2日間でした。

最後に、多忙な中、オーガナイザーとしてシンポジウムを企画・運営してくださったカレル・ノヴォトニ氏にも心からの感謝を捧げたいと思います。

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(左からゼップ氏、池田、ノヴォトニ氏、合田)

 

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(左から志野、合田)

 

池田:

私は初日に、「ハイデガーと翻訳の問い」というタイトルで発表しました。その日の私以外のスピーカーには、カレル大学の現象学の重鎮ハンス・ライナー・ゼップ先生がおり、また、それ以外にドイツとセルビアから4名が参加しました。そして、その全員が、道元、西田幾多郎、西谷啓治といった日本の哲学者について発表しました。彼らは、これらの哲学者の数少ないドイツ語訳や英語訳を読み込み、その思想の意義と問題点の双方を明らかにしようと奮闘していました。

他方、私が出発点としたのは、哲学的思考にはその本質部分に「翻訳」があるということであり、そうである以上、私としては、「現象学の異境的展開」の核心に迫ったつもりです。ハイデガーは、哲学的に思考するためには翻訳の課題があることを自覚し、翻訳の実行を通じて哲学的に思考しただけでなく、翻訳と思考の関係を考察し、言葉にしてもいました。かつて、ハイデガーは独創的な語彙の創出者としてローティらに賞賛される一方、不可解なジャーゴンを操るものとしてアドルノらに批判されましたが、実際には、彼の言葉の多くは、古代ギリシャ語やラテン語をドイツ語訳することで獲得されているのです。例えば、アレーテイアを単純に「真理」としてではなく「隠れなさ」と翻訳したり、エクシステンティアを「実存」と訳す作業を思い出してみてください。詳述できませんが、発表では、こうした翻訳作業がハイデガーの哲学に占める重大な役割についてだけでなく、「翻訳の哲学」に対するハイデガーの貢献を明らかにすることも試みました。反応は概ね良好でした。

続く二日目には、志野さんが、ハイデガーが中国語をドイツ語訳しようとした時の様子を報告してもいました。ハイデガー研究として翻訳の位置づけを見るのは実に面白いのです。しかし、それだけではなく、翻訳を介さずにアリストテレスについてもカントについても考えられないように(自分で訳すか、翻訳書を読むのかはともかく)、翻訳は、哲学と呼ばれる営みの重大な部分を成しているという、この簡素な事実をシリアスに受け取りたいと思います。かつて、ヨーロッパの思想を最初に取り入れた日本の哲学者にとって、この問題は広く共有されていました。今ではあまり議論されません。しかし、言語間を超えた共通の「意味」なるものの存在を単純に信じることを止めること、この意味のプラトニズムの徹底した拒否を、現代哲学は経験してもきました。そうである以上、音も形も違う別々の言語間で翻訳するという、この活動の奇跡性、そのもの凄さを受け止め、その理論的、さらには、倫理的な意義の深さを強調し、解明していきたい−−−−このように引き続き考えています。最後に、会場となったVilla Lannaは素晴らしかった。着いた瞬間に、気分が一気に引き締まりました。こういう研究スペースが増えて欲しい。思考は環境から切り離せないのです(本当に)。

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